☆サバイバル日記_日々徒然☆

乳がん手術後ホルモン療法中です。乳がん、卵巣がんを患った近親者がいる若い女性は必ず乳がん検診を受けましょう!note:https://note.com/mochi109

母との確執 その後

ブログの過去記事を読んでいてびっくりした。

ほんの数年前のことなのに遠い遠いむかしのことのようだ。

なんと当時のわたしは母親のことを心配していたらしい。

 

norimczk.hatenablog.com

 

 

norimczk.hatenablog.

この記事を書いてからしばらくのちに、またいろいろな事件が起こり、

母親に「わかってもらいたい」という想いを完全に手放した。

この記事から5年後の今、コロナ禍もあって2年近くまったく会っていない。

子どものころから何度も喧嘩もしたし感情的に訴えたり冷静に話したり手紙に書いたり、都度都度、精一杯ぶつけてきた想いがもうない。

怒りも悲しみもさみしさもない。

この人はわたしが死んでも悲しまないという確信に全く感情が動くことはない。

 

感情が動かないから怒りもわかずムカつきもせず会っても普通に話せると思う。

精神的に絶縁したので、他者として優しく接することもできるのではないだろうか。

 

でも平穏な心を手に入れた代わりに、失ったものもあるのだと最近になってようやく気付いた。

自分という人間の輪郭がどんどん覚束なくなってきている。

 

やはりもう一度あのころのように書き残しておかないといけない。

はるみちゃんとなおみちゃん

幼いころに住んでいた借家地帯。

同じ区画に平屋が二件づつならんで建っていて、その間を碁盤の目のように通路が通っていた。区画のそれぞれの借家に庭らしき部分もあって、花壇を作ったり小さな畑にしている家も多かった。

同じ敷地に建つお隣さんではなく、通路を挟んだ向かいの借家に双子の女の子が住んでいた。一卵性双生児で顔も体つきもそっくりなふたり、はるみちゃんとなおみちゃん。

わたしが幼稚園生のころ、彼女たちは中学生ぐらいだったのだろうか。
お父さんとはるみちゃんなおみちゃんの三人暮らしでお母さんはいなかった。

当時は珍しい父子家庭だった。ご両親が離婚されたのか死別かなどは、もちろん知らなかった。なぜはるみちゃんとなおみちゃんちにお母さんがいないのか、母に尋ねた可能性もあるが答えを全く覚えていない。

 

リアルなふたりの容姿の記憶はない。
わたしのふたりの外見の記憶は、写真で見たものだ。
その写真を再び見ることはかなわないが、アルバムに一枚だけ貼ってあった写真の洋服、髪型、表情、姿が丸っとそのままはるみちゃんとなおみちゃんの記憶に補完されて、わたしの中では写真の外見のままのふたりが動いたり話したりする。

 

写真にはふたりと一緒にわたしも映っていたと最近まで思っていたが、願望からくる妄想で記憶を捏造したのかもと思うようになった。
その写真に映っていたはずの自分の姿がまったく思い出せないからだ。

長い黒髪をセンター分けしたふたりが立っている写真は鮮明に覚えている。その真ん中にちいさなわたしが映っていたと思い込んでいただけな気がする。

きっと別ななにかの写真の記憶と混ざったのだ。


 

当時、はるみちゃんとなおみちゃんのうちには電話がなくて、我が家が電話の取次ぎをしていた。

彼女たちのお宅あての電話がかかってくると、彼女たちを呼びに行った。
彼女たちやお父さんが電話を使いたい場合はうちにきて、たぶん10円ぐらい払って電話を使う。
何も疑問に思わない日常だった。
お味噌や砂糖やお醤油を彼女たちが借りに来ることもよくあった。
借りるということばを使うのは返しますという気持ちの表れだったのだろうが、母は別に返してもらう気などなかったと思う。煮物やお惣菜などいっぱい作って、よくはるみちゃんとなおみちゃんのうちにお裾分けしていた。

 

そういう関係だったせいもあり、わたしはふたりにとてもかわいがってもらっていた。
借家地帯の子どもたちのなかでわたしは、自分の弟を含めつねに小さい子の面倒をみる立場だった。(自分より年上の子たちに小さい子たちの面倒をみるように命じられていた)

あの時代は現代では考えられないが、子どもの遊びに親は付き添わずたいてい子どもだけの集団で遊んでいた。上下関係もあったし大きい子が小さい子のためにつねに我慢するというのは世の常識だった。
現代のように子どもの気持ちに寄り添う系の育児がなされている家庭など、当時あったと思えない。

 

 

今でもその時の嬉しかった気持ちがよみがえるほどの思い出は、はるみちゃんとなおみちゃんのおうちに遊びに行って、シーツの両端をもったふたりがわたしをシーツに乗せてブランコのように揺らしてくれたことだ。
はるみちゃんとなおみちゃんのおうちの居間はあまり家具がなくてがらんとしていた印象がある。そこでシーツブランコをしてもらった。一生忘れないと思う。
かわいがってもらえて甘えられた記憶はわたしにとっては本当に貴重で大切なものだからだ。

 

 

その後、はるみちゃんなおみちゃん一家は引っ越していった。

あの夜のことは写真ではなくリアルな記憶として鮮明に覚えている。

寝ていたわたしは、ガッシャーーーーンというガラスの割れる音で飛び起きた。
当時のガラスは現代のサッシに使用されるガラスと違ってとても割れやすく、窓ガラスが割れたりヒビが入ることは珍しくないが、あんなに大きな音をたてて割れる場合粉々になっているということだった。
それと同時に男性の怒鳴り声、叫び声が響き、わたしはあまりの恐ろしさに布団をかぶって耳をふさいだ。

これは後日母から聞いた話だが、うちの父がゴルフクラブを持って外に飛び出すと、はるみちゃんなおみちゃんのお父さんが暴れていた。
彼は酒乱でたまに夜中に大きな声が聞こえてきたこともあったが、あそこまで派手に暴れたのは初めてだったそうで、警察に通報したとのこと。

 

その事件があったあと、しばらくしてはるみちゃんなおみちゃん一家は引っ越していった。
あの頃は全然わかっていなかったが、はるみちゃんとなおみちゃんの家庭は複雑で大人になって考えるといろいろ大変だったと思う。
父子家庭でお父さんは酒乱。でもあのお父さんは普段はとても穏やかで優しい人だったのだ。
はるみちゃんとなおみちゃんはつらいことがいっぱいあったと思う。

でもふたりとも明るくて優しい人だった。
ふたりがくれた思い出というのはわたしにとっては本当に大切なものだと改めて感じている。

 

 

 

 

 

 

夢をおぼえている

子どものころの記憶で鮮烈に覚えているシーンは複数あって、リアルに体験したことのほかに当時みた夢がある。

 

今は目覚めるとすぐに忘れてしまう夢を、なぜこれほど鮮明に覚えているのか不思議だ。当時は目覚めると見た夢を頭の中で復唱するように何度も何度も思い返した気がする。それで記憶として定着したのだろうか。

夢を思い返すことを繰り返すうちに、若干脚色が加わっている可能性も否めないけれど、自分の中ではリアルに見た景色と夢で見た景色と写真で見た景色がきちんとカテゴリーわけされている。

夢は夢として記憶されているのだ。

 

何歳ぐらいに見た夢かは定かでないが、すごく記憶に残っている夢がある。


わたしが幼稚園時代に住んでいた家は平屋の借家が結構な戸数並んでいる、団地の平屋バージョンみたいなところだった。

平屋の借家が立ち並ぶ一角の道路をはさんだ向かい側に、四方を高い塀で囲われ樹木が鬱蒼と茂る大きなお屋敷があって、母から画家がそこに住んでいると聞いていた。

借家地帯から少し歩くと田んぼや畑があって、小さな丘っぽい森を抜けると神社とその隣にお寺があった。

神社の裏手にあたるその森と神社は借家の子たちの格好の遊び場で、鳥居の手前は小さな広場でブランコとシーソーなど簡素な遊具があった。

 

その夢は当時住んでいた場所の景色を色鮮やかに詳細に含んでいる。

現実にわたしが見ていた景色の記憶が夢とまざったものではなく、本当に夢の中でみた景色そのままなのだ。

 

起きたとき現実と夢の区別がわからなくなって混乱した気持ちもはっきり覚えている。

 

夢の中では、画家が住んでいる豪邸の立派な門の前に砂の山があって、その砂山の上にトラぐらいの大きさの真っ白いねこが優雅に横たわっていた。

一帯はそのねこに支配されている。

体形はトラだけれど真っ白いねこはわたしたち子どもに命令する、話すねこだった。

子どもだけではなく大人もねこの命令にしたがう。

大きな声でがさつに命令するわけではなく、高貴な雰囲気を漂わせながら命令するのだ。脅かすわけでも痛めつけるわけでもないが、支配されていることだけは嫌というほど伝わる。白ねこの命令には従わねばならない。

わたしは塀によじ登ってぐるりと回り画家の家を偵察するよう命じられて、塀によじ登った。木が生い茂りすぎて塀の上を歩くのが難しい。

それでも塀の上を歩いていくと樹木の切れ間があって中が見えた。平屋の豪邸と緑の芝生の広い庭があった。

この塀の上からみた中の様子が夢の捏造なのか、現実もそうだったのかがわからない。

たぶん夢の捏造な気がする。

他にもねこからいろいろな指令をうけてミッションをこなした。

心の底には恐怖があった。その白ねこが怖かった。

 

今でもこの白ねこの声を覚えている。

なぜなら、この白ねこが登場する夢を何回も繰り返しみたからだ。

白ねこのゆめを最後にみたのはいつのことなのだろう。

 

たとえ夢でみたことでも子どものころの情景を忘れずに覚えていられるのはありがたい。

写真も一枚もないし、子ども時代の話をすることもない。

子どものころの記憶がどんどん消えていくと本当に自分の輪郭が崩壊していくような気がするから。

 

白ねこのほかにも、シリーズものの夢を忘れぬうちに残しておこう。

それぞれの苦しみ

こんなご時世だが、友人と会って話をした。

対面で会って話をする臨場性は、長い付き合いの友人でも思いがけない化学反応を起こす。

zoomやLINE電話とは明らかに違う、臨場性が生み出す「気」はいったいなんなのだろう。

 

友人はかれこれ30年近い付き合いで、わたしの大学時代の後輩だ。

べったりした関係ではないけれど、お互いの人生の歩みはほぼ知っている。

彼女のことが昔から好きだったし、今もつかず離れずの距離感で付き合いは続き今後も疎遠になることはないだろう。

30年弱の間、お互いに抱えている問題や悩みや秘密をすべてではないが都度都度共有してきた。

 

今回、彼女がわたしに語った内容はある種の地獄だった。

正直びっくりした。そんな問題を抱えているとは全然気づかなかった。

隠していたわけではないのもわかる。たまたま話すタイミングが今回だっただけなのだろう。

ハタから見ていると幸せそうで誰もがうらやむ人に思える彼女の抱える地獄を聞いて、自然とわたしの地獄も一部話した。

同じように彼女も驚いたと思う。

 

ひとは何かしらの問題を抱えて生きている。

他人に頼るのがとても苦手なのだが、

結局わたしが頼る相手というのは、みなわたしを頼ってくれたひとたちだ。

心を開いてくれたひとたち。

 

こんな年齢になっても自分から心を開くのが難しいのは情けないけれど、

それでも頼ってくれた人たちには自分も頼っていけるよう、地獄を抱えたままでも闇に落ちることはなくのろのろと進んでいくのだろう。

 

 

 

 

目標達成

今月とうとう目標としていた年齢になった。
死なずにたどりついた。
父親が死んだのが53歳。40代で死ぬのは嫌だったからなんとなくほっとした。

思ったより感慨がないのは、世間の不穏な空気と先の見えなさと未来への希望のなさが原因かもしれない。

50歳記念に旅をするはずだった。

欲しいものなんて別にない。
行きたい場所と行きたい店、思いついたら飛行機でも新幹線でも車でもなんでもいい、ふらっと出かけられる自分でありたいだけ。

行って感じるんだ。
実際に行かないとその場の気はわからない

そういう自分でいられるように自由はじぶんでまもる。





生きてます

久々にログインしました。

とりあえず生き延びてます。


ホルモン療法継続中で毎日1錠タモキシフェンを服薬。

たまに飲み忘れますが主治医から8割服薬で優等生と褒められ、飲み忘れてもすぐにどうこうならん、と余裕を持てるぐらいには病気との付き合いも板につきました。


昨年受けた人間ドックで、かの有名な腫瘍マーカーCA19-9の数値が基準値越え。

これ!!!いよいよすい臓ガンきた、遺伝子

怖いわあと久々に真っ向から死の恐怖と対峙する日々は2回目とはいえさすがにガリガリメンタル削られ。

また得意の自分の葬式について考えたり、今度こそ子どもたちに自分の口から伝えねばならない苦しさ、自分が死ぬことより子どもがショックを受けることの方がよっぽど嫌で悶々とした日々を送り、でも初回の死への恐怖より確実に薄くなった絶望感に人間の慣れって最強説を実感し力がわきました。


これからも検査を受けるたびに、結果を聞くまでの憂鬱と良くない結果の絶望を繰り返していくはず。でも確実にどんどん慣れていくと予測できるようになったのは希望でしかないです。


精密検査を受けた結果、限りなくよくわからないグレーですい臓ガンではないらしく、

かわって浮上したのが肺の小さなカゲ。

また検査ですね、はい。


病気に関しては死なないようにがんばるのに、日常生活では頻繁にダークサイドに堕ちる寸前ぐらいのとこをウロウロしていて、

自分の空っぽさ、才能のなさ、くだらなさに

「生きてる意味なくね」という思考に囚われるのが不思議です。

かなりの頻度で闇堕ちしかけていて薬の副作用かしら。。。更年期説も有望で副作用と更年期の相乗効果ですね、きっと。

生きている意味も価値も自分にあると思えなくても、ちゃんと生きてるってすごいなあ、貝のようにただじっと、このネガティブな気持ちがさるのを待ちます。

日常生活も仕事もなんら変わりなく過ごせるのに心の中だけネガティヴキャンペーンなの、ほんと何なんだろう。


でも死なないように薬は飲みます(笑


書きだすと書きたいこといっぱいでてくるね。




小林麻央さんのブログ

小林麻央さんのブログを読んでいます。

テレビのワイドショーやスポーツ紙などで、ブログの内容が更新されるたび取り上げられ、勝手な憶測を土台に要約されて報道されるのを目にするたび、あまりのえげつなさに辟易していますが。こういう報道は一切やめてもらいたい。

それでも麻央さんはブログを更新し続けていて。

ブログを読んでいると、麻央さんは素直な方だと感じるし、そして同じ病気の同士として彼女のことばにとても共感します。

毎回それほど長い文章ではないけれど、伝わってくるものはとても濃い。

 

昨年、病気がわかって以降、乳がんの闘病ブログをたくさん読んできました。

この一年半のあいだに、4名の読んでいたブログの主さんが旅立っていかれました。

4名の方のうち3名は、ご主人やご友人がブログに亡くなられたことを書き込んでくださり、その事実をしり、1名の方は周囲の方からの書き込みはないけれど最後の更新前の病状から、更新が途絶えてだいぶたつので、たぶん旅立たれたのだと思っています。

 

この中のおひとり、生前ほぼ毎日ブログを更新されていたトトロさんは、再発後乳がんの抗がん剤治療をやりつくして最後まで絶対あきらめず、闘いぬいた方でした。

書かれる文章やご職業からとても頭のいい聡明な方だと感じていました。

ご両親は他界されていて一人っ子、未婚の一人暮らしで、最後のころはブログを読んでいても一人暮らしはもう無理では。。。と心配になるほど日常生活もままならない状況でしたが、自分でできることはやりぬいたトトロさん。入院されてからも最後までがんの治療にチャレンジしようとされていました。

 

彼女はとても人望があったのでしょう、親友の方や後輩の方などのサポートももちろんずっと続いていたし、その他いろいろな方の想いに支えられていました。

彼女が亡くなられあと、後輩の方がブログにその事実を書き込まれた文章は本当に想いに満ちていて感動しました。

私もコメントしたことはないけれど、とても力をもらい何より、万が一再発しても、やれることは全部やって治療をあきらめず執念ぶかく生きられるだけ生きようと考えられるようになったのはトトロさんの闘病ブログのおかげだと思っています。

トトロさんのこと、何も知らないしもちろんお会いしたこともなく、ブログでしか知らないけれどトトロさんのこと忘れないと思う。

自分も忘れられたくないからブログを残そうと思っているのかもしれない。

麻央さんもどこかにそういう気持ちがあるのかもしれない。

 

本当に最近人間不信で、ひとに寄り添うということを考え続けているけれど

誰かが応援してくれたり気にかけてくれたり声をかけてくれたりというのは、本当に本当に力になるので、麻央さんのブログへのたくさんの応援コメントが彼女の生きるちからになるといいなと思います。