母との確執①
先日、がんになってから初めての誕生日をむかえた。
がんの闘病ブログを拝見していると、みなさん術後1年2年...と自分の年齢とはまた別のカウンターができている。もちろん私もそうだが、今までさして重要と感じていなかった自分の年齢や誕生日も、そのカウンターと共にとてもとても重要になった。
夫や子供たちは毎年必ずお祝いしてくれる。家族で祝う誕生日は、逆に今までと変わらぬ延長線上ごくごく普通であってほしい。
実際そうだったし、それがとても幸せだった。
だが、ひそかに、がんになって初めての誕生日、自分で自分のことを特別に祝おうと前々から決めていた。私には、最悪この年齢までは絶対死にたくないという目標があって、そこにたどり着く決意を再確認する日にしようと心の中で決めていた。
そして、この日たぶんそうだろうなと予想していたとおり、実母からの電話はなかった。前回までは毎年必ず母は誕生日に電話をくれた。これといって特別なことはなく、とりとめのない話をするだけだが、私の誕生日を覚えていて電話してくれるということだけで、とても嬉しかった。
追々原因についても書き残しておきたいと考えているが、いろいろなことが重なり、現在、母は完全に心を閉ざしている。そのことに対してどう対処していいか迷い、まず歩み寄り寄り添おうとしたが上手くいかず、今は母にアプローチすることをやめ傍観している状態だ。私のほうも母に対して心を閉ざしているともいえる。
がんの確定診断がおりたとき、母になんて話そう。と考えると心が苦しくてたまらなかった。
実際、話さず隠しとおすことも考えていて、事実を知ったら母はどんなにショックを受けるだろう、悲しむだろう、親不孝すぎて話す気になれず、入院中に子供たちの世話をお願いする関係で仕方なく母に伝えたのは、オペの日がかなり近づいてからだった。
自分にも子どもがいる。
私のモチベーションは「我が子が病気になるより、自分が病気のほうがいい」「我が子が死ぬような事態ほど地獄なことはない、それに比べれば自分が死ぬのはマシ」
本気で子どもたちが元気ならいいやと日々暮らしていた。
この考え方でいくと、母の子どもである私は、母に地獄のようなつらさを味あわせることになる。胸が痛かった。
親という人種はみんなそうなんだろうな、と思っていたから。
現在、わたしは正直にいうと、私が死んでも母は私が心配したように悲しむことはないだろう。と思っている。
母は、私と弟の存在を自分とは関係のないものと無理やり設定しなおし、自分の感情世界から排除しているからだ。
それほどまで母は深く深く傷つき、自分の心を守るための手段だろうことは理解している。
だが、これはやられる側も相当傷つく。
わたしは、母に寄り添えるのは自分のみ、とわかっていながら、無配慮な言葉でショックを受けたくなくて距離をとっていた。
いろいろ思い出すに、ここまで心閉ざす前にもう少し受け入れてあげればよかったのだろう。だがわたしには母の悪い部分を責める気持ちがどこかにあって、無条件で受け入れてあげることができなかった。
「受け入れる」「許す」ということを考え続けているが、それを行動で示していくのはとても難しい。どんなに思索を深めたところで言葉と行動がすべてなのだ。