☆サバイバル日記_日々徒然☆

乳がん手術後ホルモン療法中です。乳がん、卵巣がんを患った近親者がいる若い女性は必ず乳がん検診を受けましょう!note:https://note.com/mochi109

自分が断捨離されました

「生まなければよかった」という呪いのことばを子どもが親から言われるダメージは一過性のものではなく、大人になってもわだかまりが心のどこかに残っていたりします。

 

私たち世代は親から「うちの子じゃない!」レベルのことはよく言われて、慣れっこで育ってきた部分もありますが、特に幼い子どもに「存在を否定することば」を言ってはいけないと強く感じる出来事がありました。この年齢になっても親から自分の存在を否定されるとメンタルに受けるダメージは想像以上に大きかったからです。

 

ある日、母はわたしに言いました。

突然宣告されたわけではなく、なにげない普通の会話の連続の中に流れるようにさらっとその言葉はでてきました。明日はゴミの日だね。そうだね、ぐらいのニュアンスで。

母「写真一枚もないよ、アルバムもなにもかも全部捨てたから」..........え!?

私「わたしのも?赤ちゃんの頃のアルバムとか、高校の卒業アルバムとか、え......全部?うそでしょ」

母「結婚式の写真も何もかもすべて全部捨てたよ」

私「..........そうなんだ」

 

母は私の生まれた時からのアルバム、幼小中高の卒業アルバム、入学式七五三成人式結婚式やらの写真と実家に残してあったものすべてを捨てたそうだ。

正確にいうとわたしと弟のものすべて。

モノ、服、本、マンガ、CDなどはどうでもよかった。でも写真は........

この言葉を聞いたときの私の正直な感想は、怒りでも悲しみでもショックでもなく

【このひと、すげー】だった。

わたしは我が子の赤ちゃんの時からの写真を捨てられるだろうか。できない!捨てられない。

呆然としながら母に

「写真だけは捨てる前に連絡くれたら全部とりにいったのに。言ってよ!!!」とだけは言いました。母はなんと答えたんだろう。覚えてない。なにも答えなかったのかもしれない。

 

それからわたしは、感情はフラットでべつに怒りも悲しみも憤りもないけれど、写真のことが常に頭から離れない日々を過ごしていました(その時はわからなかった、今だからわかります)

自分の中では、実家に置きっぱなしにしていたのが悪い。結婚するときにアルバム等すべて持参する人もいるのに実家に放置していたんだから、捨てられてもしょうがない。と一応決着はついていました。

でも、記憶の中にある、アルバムに貼ってあった、私が3歳ぐらいで父とふたりで写っていた写真、あれだけは欲しかったな。とか、うっすらとした記憶のアルバムの中の赤ちゃんの自分をまるで脳に刻み付けるように思い浮かべてばかりいました。

 

東日本大震災で家を失い、写真や思い出の品など全部なくされた方たちもこんな想いをされたんだなと改めて考えたり。

数年前、震災で被災した母の実家に全壊判定がおりて取り壊しが決まった際、亡き祖父母の荷物を整理しにいった母が

「送った七五三や入学式の写真、大切にとってあったよ」

と、母自身が祖父母に送った、私や弟の写真を回収して戻ってきたことを思い出したり。

その祖父母宅から持ち帰った写真も今回全部捨てたのでしょう。

 

母がすべてを捨てたのには理由があって、いずれこのブログにも書いていきたいのですが、すべてをリセットしたかったのだろうな。と推測しています。

弟をいなかったものとして考えるという言葉を母の口からきいていましたので、

「わたしのこともだったんだ」とぼんやり思いました。

でも彼女は写真を捨てられたらわたしがどう感じるかとか、思い至らない。考えもしないというか。リセットされる側の気持ちはまったく除外されているらしく。

それが、今回の一連の騒動が原因で突然変わった結果かというと、そうではなく、昔から彼女にはそういう部分があった気がします。

 

昨年から度重なる、実家がらみのこの手の出来事でわたしは感情が動かなくなってきていました。

感情は動かないフラットなのに、気分はふさぐ。気持ちは落ちる。

やけに意味もなく悲しくなったり、だけど、淡々と日々が過ぎていき情緒不安定になって。

 

そんなとき、たまたま、かなり以前から約束していた観劇で友人と会いました。

この友人にはうちの実家の惨状も弟がうつ病になったことも何も話していませんでした。なのにこの友人に母親に写真をすべて捨てられた話をしました。ネタとして。

誰かに話したのは初めてで(夫にも言っていない)

友人は母を病院に連れていくように熱心にアドバイスしてくれました。

わたしは、この友人との会話の中で「すごいショックだった」というセリフを20回ぐらい言った気がします。

言いながら心が軽くなっていくのがわかりました。自分で「わたしやっぱりショックだったんだ」とういうのをこのとき初めて自覚できたのです。

気分がおちる原因が写真のことだとわかっていなかったので。

 

人に話すって、ものすごく大事だなって。

感情が動かなくなってくると、つらくてもどん底でも人に話すこともできなくなり

うつ病ってこうして発症していくのではないかと実感しました。

 

うつ病の人の周りの人間は、「つらいって言ってくれればよかったのに」と誰しもおもいますが言えるうちは大丈夫で、言えなくなったら病気の入り口。

 

友人が、自分がもし同じ状況だったら母のことを許せないかもしれない、激怒してしまうかもしれないと言っていたのにも正直救われました。

 

わたしは我が子の写真、大切に一生もっていたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久々のブログ更新

ずいぶんブログを放置してしまった。

一度遠ざかるとなかなか書く気力がおきず、仕事で一日中PCと向き合っているためプライベートでPCを開く気にならないのもあって、ほっておいてしまった。

いつから書いていないのだろう....

時間軸にそって過去を振り返る気力もないので今について書きたい。

 

病気になったこと、実家の家族が崩壊したことで、自分が一番変わったなと思うことは

自分の感情を一歩引いて観察できるようになったことだ。

自分の負の感情、妬みやっかみひがみ劣等感コンプレックス、そういう感情も

「あ、いま私ひがんでるんだな」という感じでその場で自覚できるようになった。

今までは感情を捻じ曲げてとらえたり、感情を自覚したくないがゆえ自分以外に原因をこじつけたり、

たとえ、わかっていたとしても自分で認める気がなかった。

これを自覚をできたのは非常によかった点。

 

自分の感情に向き合えるようになった理由を考えてみると、

どうしようもない孤独感を知って絶望し、そこから上がってくるとき、

「孤独感」とうまく付き合っていくしか方法がない、がんになった以上生きている間は孤独感からは逃げられないと悟ったからだと思う。

 

こうしてブログをまた書き始めたのも、孤独感に押し流されないようにするためな気がする。普段の生活は、日常に追われあっという間に過ぎさりわりと平穏な日々をおくれていても、ふとしたきっかけでこの「孤独感」に襲われることがある。

こういうとき「助けてほしい」といえる人間になりたい、ならなくちゃいけない。

たとえ家族でも他人には言わなきゃ絶対に伝わらないし、察してほしいというのは傲慢だというのは重々承知している。

相手を自分の思いどおりに変えることは絶対にできないし、勝手に期待してそうしてくれないからと言ってキレるのは、わたしの中では罪悪を通りこして、最もしてはいけないことになってしまった。

こうなった原因は、母と弟のトラブルなのだが、このトラウマのせいでかなり苦しんでいる。

この考え方だと、自分に厳しすぎて「助けてほしい、理解してほしい、気にかけてほしい」が他人にいえない。

 

昨年一年間で、ひとに話したらドン引きされるぐらいの不幸に見舞われたけれど、

そのことを直接話した友人以外は、当たり前だが全く知らないし気づきもしないし、自分もまるでなにごともなかったかのように、ふつうに暮らしてきた。

 

そこで気づいたこと。

 

ああ、そうか、わたしがこれだけの苦しみ抱えても平然と暮らしてるってことは、

わたしからみて、いつもと変わらぬ普通だと感じてる人々ももしかしたら、

すごい悲しみや苦悩を抱えて生きているのかもしれない。

わかってなかったんだ。

そんな当たりまえのことを深く実感した。

 

悩みというのは誰でもあって、当人にとっては生死に関わらなくてもつらいことは本当につらく、幸せかどうかも本人の感覚次第で他人にはわからない。

がんの孤独も特別なものではないんだって、心から納得いったら

ひとやま本当に越えられる気がする。

 

人は独りでは生きられない、これは本当にわかった。

 

 

 

 

パターン読みきれず

先月とはまったく違うパターンの具合の悪さでやられる。


戸川純の「玉姫様」の歌詞があたまに浮かんでグルグル。

〜ひと月に一度座敷牢の奥で玉姫さまの発作が起きる〜


具合が悪くなる度合や症状は予測不能でも、「おかしくなる」って自分で分かっていれば、やっぱりな...である程度は対応できそうだ。


50歳前後で普通に更年期を迎える人たちも、症状は人それぞれ違うんだろう。普通の更年期を迎えた人の体験談を聞いてみたい。

自分とどう違うんだろう


本当につらいときはSOSだせない

若いころは生理周期が長めで周期がずれることがたまにあったけれど、出産してからはずれがほぼなくなった。40歳を過ぎたころから長めだった周期が短くなってきたが相変わらず順調で生理はかなり正常な方だと思う。生理不順や激しい生理痛もなく、PMSに多少悩まされてきたぐらいだ。

タモキシフェンを飲みだしても、生理周期は正確できっちりきていた。

 

が、先月初めて一週間以上遅れた。自分的にはこれは、このままあがるのかも!と思ったり。生理周期が狂いだすということは、ホルモン代謝が変化しているということで、生理の予定日数日前から自分でもヤバいと思うぐらい精神的におかしくなった。

 

まず、説明しようのないやるせなさ(実生活では特別変わったこと何もなし)謎の独りぼっち感、絶望感、生きててもしょうがないもう再発してもいいという投げやり感に襲われ、何をしていても涙がボロボロボロボロでてくる症状が続く。

昨年しこりを見つけ検査後、結果が出るまでの2週間とまったく同じ症状だった。

この『泣き』は悲しいことがあって泣いてるときのような、ヒックヒックというのがない。あんまり鼻水もでない。ただ涙があとからあとから出てくるが、泣きながら普通に喋れるので子供たちにも気づかれず、花粉症で目が痛いといえば疑われもしなかった。

それと、おなかがすいているわけでもなく、さして食欲があるわけでもないのに、ひたすら何かを食べ続けていた。(主にお菓子、ジャンクフード)

再発を恐れているのに、もう死んでもいいやっていう気持ちに支配される。

そして、どんどん太る自分がいやでいやでますます生きている必要ないという感覚に

支配されていく。

 

私の仕事は、すべてPC作業で人とのやりとりはほぼメール。だが、オフィスの同じ部屋には100人を超える人がいる。

もちろん直属の上司とは仕事の確認で話をするし、私のデスクのまわりにもひとがいる。通勤は電車だ。

この狂っている期間、わたしは3~4日一度もお風呂にはいらず出勤していた。

顔も洗っていない。洋服だけは一応毎日違うものにして、眉毛だけ書いてマスクをして出勤していた。髪の毛はぐちゃぐちゃだ。

対客がある仕事だったら100%クビになっていたと思う。

この状態でも仕事にだけは毎日いっていた。うちにひとりでいても余計地獄だし、何より生きている価値があると思えない自分が、唯一必要とされていると感じられる場所だからだ。あと振り返ってみると、子どもたちの食事洗濯などは普通にやっていた。

自分は風呂に入れなくても、子どもの弁当や食事だけは作れるのだ。

どんなことがあっても子どもたちのことだけは・・・という一線がなくなったら本当に抗うつ薬を服用しないといけないのかもしれない。

 

この状況がいつまで続くのか先が見えない中、わたしは、人間本当につらくなると助けてっていうSOSすら出せなくなるんだ。と思い知った。

そして、弟のことばかり考えていた。なんで弟は言ってくれなかったんだろう、もっと早く言ってくれれば最悪の事態を回避できたのに。とずっと思ってきたが、我が身に起こっている事態で初めて、だれにもどこにも言えなかった弟の気持ちを理解した。

自分から手を差し伸べなきゃいけなかったのは、わたしだ。

自分から弟にアプローチしなければいけなかった、後悔してもしきれない。

 

地獄のような苦しさの中でも、友人が

「元気ー?」とたわいもない連絡をくれてそれがきっかけになったり、出勤途中青空

をみあげたり、桜の美しさに今年も桜がみれてよかった、と思えたり地獄のそこからなんとか少しづつ這い上がってきたかも、と感じられた矢先に

もうあがったと思われた生理がきて、この地獄はまだまだ毎月続くんだという事実をうけいれる。

 

間違いなく近いうちにあがるだろう、けれどそれまでは耐えるんだ。

 

そして、本当につらいときに助けを求められない人、わたしが「ゲンキー?」って連絡を取り続けなければいけない人、の存在をあらためて思い出す。彼女には私にはいる友達がいない。

そして実子であるわたしのことをひとかけらも心配しないほど病んでいる。

絶対に忘れちゃいけない、助けてって言えないぐらい病んでいる人の存在を。

 

 

 

 

 

 

お薬続けられそうですか?

昨年の10月から毎日タモキシフェン20mgを一錠飲んでいる。

放射線治療後のホルモン療法で規定路線だ。

 

病院で処方されたのが、正規薬のノルバテックスではなく最初からジェネリックのタモキシフェンだったのが想定外で、当初ジェネリックは不安だったが圧倒的にお値段が安く、とても助かっている。

タモキシフェンの服用開始前に副作用についての知識は自分なりに学んで、それなりに覚悟も決めていた。再発を予防するための薬だ、飲まないという選択は私にはなかった。

 

最初の診察では、副作用の状況を知りたいからということで薬を2か月ぶん処方された。

大丈夫そうであれば今後は4か月ぶん処方でいいそうだ。もちろん、なにか体調に変化があったり不安なことがあったらいつでも乳腺外科に電話、外来予約してくださいと言ってくださった。

2か月後、診察。

飲み始めて最初の生理が、あり得ないほどの大量出血で度肝を抜かれたこと以外、これといって副作用らしい症状もなく、よく言われるホットフラッシュなど更年期症状もなく、日常生活に影響があるようなことはなかった。すごい寝汗をかくぐらいで。

「お薬続けられそうですか?」「全然大丈夫ですよー!」

「では次は4か月後でいいですね~」

となった。

年明けぐらいから、頻繁に足が攣るようになる。これって副作用なのかな。。。と思いつつ、まあ足が攣るくらいなら平気だよ。と布団のなかで毎晩ひとり暴れていた(笑)

徐々にホルモンバランスが狂ってきているのが自分でわかる。。。生理前になると気持ちがどーんと落ち込む、食欲のコントロールが効かなくなる、どんどん太る、無気力、なんだかもう、つらい状況になってきた。それでも、更年期は遅かれ早かれやってくるし、たとえ薬の影響で更年期症状がひどくなったとしても再発するよかは全然マシだ、

とタモキシフェンを一日も欠かさず飲み続けていた。

無精で飽きっぽく継続性皆無のわたしが、続けられるのは我ながらすごいと思うが、やはり命がかかっていることと薬を飲むのは簡単だからだろう。

適度な運動を継続することも大事なのに、それはとても難しい。

 

4か月後の3月、久々の診察。

さすがに4か月のあいだには、不安になるような痛みがあったりで診察を心待ちにしていた。診察は激務の主治医Y先生ではなく、Y先生のチームの一員で私の副担のような女性の先生だった。Y先生の診察を待つと予約時間の3時間後もざらだ。その日も予約時間の一時間遅れで私がF先生に呼ばれる前に、Y先生に呼ばれた方はご夫婦で診察室に入っていった。間違いなく長い時間かかるだろう。

副担のF先生は私と歳が近く(たぶん)優しく人当たりがソフトでとても話しやすい。

 

そしてF先生にもやはり聞かれる「お薬続けられそうですか?」

前回より、なぜこれを聞かれるか意味がわかってきていた。

大丈夫です。。。。副作用はそんなにひどくないですから。。。。。

4か月前は、副作用?全然ないよ!余裕でしょー、ぐらいだった私の勢いもダウンしてきた。

そして、術後1年の精密検査と診察の予約をいれてきた。

たぶん、わたしは無意識でとても不安になったのだと思う、いま思うと。

1年前のあの地獄のような苦しみを潜在意識が思い出したんだ。

この診察後、副作用が一気に悪化した。

死なないために飲んでる薬のせいで、なんで死にたくなるほどウツにならなきゃいかんの!?という

まさしく「お薬続けられるの?」という状況になってしまった。

(でも、冷静に考えると確かに副作用もあるけれども、術後1年検査の不安が原因かなと思われる。)

つづきは明日

 

 

 

運転中のヒヤリハットに遭遇して考えたこと

私はよく車を運転する。運転することが好きなのでストレス解消にもなるし、住んでいる地域も都心と違って駐車場探しなどに苦労することもなく、車を日常的に使う人が比較的多い。

高速も気軽に利用している。一般道が慢性的に渋滞している地点を避けるために、平行して通っている高速に一区間だけのるのだ。お値段410円なり。

もったいないかなとも思うが、電車で行く場合も同じくらいかかるのでよしとしている。

先日もいつもどおりすっかり慣れ親しんだ分岐から高速の入り口に入り、本線に合流するために加速していた。

その合流するための加速レーンの途中に一台、乗用車が停まっているのが目に入った。

まあ、このような合流レーンの途中に車が停まっていることもなくはないので、最初はそれほどの違和感も感じなかったが、次の瞬間、心臓がとびだしそうになった。

 

突然、その車の運転席のドアが大きく開いて、人が道路に降り立ったのだ!!!

今でも目に焼き付いて離れない、白髪のおじいちゃん。

 

こちらは高速に合流するため加速している途中だったが、そのおじいちゃんを避けるためにとっさに加速不十分のまま本線に入った。

本線に入るとき、ドアミラーで瞬時に後続車を確認して入ったが加速不十分のため、すいていた隣車線にすぐうつり、うちのボロ車のアクセルを思いっきり踏み込んで加速した。

心臓がバクバクした。。。とっさの判断は間違いではなかったと思う。

加速レーンでブレーキを踏んで止まってしまうとそのあとが非常に大変。加速レーンには後続車も続いていた。

さいわいなことにいつもかなり混んでいる高速の本線がすいていて車間に余裕があったため、本線に入ってから加速しても大丈夫だったのだ。

運がよかったんだと思う。

 

あの、おじいちゃんは大丈夫だったのだろうか。

最近ニュースでよく見聞きする高齢者の事故が思いだされた。

高速道路の逆走、ブレーキとアクセルの踏み間違いによる店舗へのつっこみ、

ギアの入れ間違い等々。

これからの時代は自動運転が主になっていくのだろう。追突や急な飛び出しへの急ブレーキなどは自動運転が得意とするところで、事故も減ると思う。

だが、今回のおじいちゃんのように停めてはいけないところに車を停めたり、降りてはいけないところで車を降りたりなども自動運転は抑止できるのだろうか。

今まで20年以上車を運転してきて大きな事故を起こしたことはもちろんないが、運がよかったという要素が一番強いのかもしれない。

どんなに自分が注意していても避けられない事態もあるだろう。

 

加齢とともにいろいろな身体能力や認知能力も衰えて状況判断もあやしくなってくる。そういう部分を自動運転や人工知能がカバーできるようになれば、高齢者による事故も減るかもしれないと思った。

わたし自身は自動運転???ふーんって感じで自分で運転したい人なのだが、それもおごりであり過信なのかも。

自動運転に負けないぐらい、自分の運転の方が優れてるよ!運転得意だもの。っていう心の奥の気持ちが一番危ないかもしれない。

 

 

 

 

 

インフルエンザの意識障害

今年久々に家族がインフルエンザにかかりました。

記憶をさかのぼってみると、4年前(かな?)新型インフルエンザが大流行したときに息子がなって以来ですね。あのときは、本人は罹患していなくても家族に新型インフルエンザ患者がいると、濃厚接触者ということで登校禁止という厳戒態勢でした。

幼稚園の弟妹がインフルエンザで欠席しているのに小学校の兄姉(元気)を学校に行かせて、学区内ご近所で兄弟姉妹が同級生パターンも多いためあっという間に知れわたり、非常識な人の烙印をおされ大ヒンシュクかってしまった人たちもいました。

ぜんそくの持病がある子などは危ないといわれていたので、感染拡大しないようにするには仕方ない措置だったと思います。

 

新型のときは、世間的にも意識障害が大変話題になりましたが、実際に身近な人たちからも体験談をいろいろ聞きました。

うちの息子も過去インフルエンザAorBにかかって高熱のとき、突然笑いだしたり、意味不明なことを口走ったり、うなされたりということはありましたが、

新型のときは尋常じゃなかった。

天井の1点を見つめたまま微動だにせずぶつぶつ何か言い続けるという相当恐ろしい状態になり、水分補給のために起こして飲み物を飲ませようにもほとんど飲めなくて、これで名前を呼んで反応しなくなったら救急車を呼ぼうと、付きっきりで様子を見守っていました。

この時期、新型の大流行(大人も)と、それに伴う意識障害やけいれんで救急の受診者が多くて、近くの大学病院の救急が夜間は5時間待ちという話をママ友から聞いていたので、普段なら救急車を呼ばず自力で行くのに、行ったあげくに高熱の子を長時間待たせるのは、と迷ったまま目を離せず過ごしていました。。。

 

うちの子は微動だにしない系でしたが、話を聞いた中には暴れたり、突然飛び起きたり走りだしたりというパターンの子も!

これは本当に怖いです、家族全員で見守らないといけません。

 

新型流行の前だったのですが、忘れられない事件があります。

インフルエンザが流行する冬ではなく、6月ぐらいっだったかな。

深夜にお風呂に入っていると廊下がバタバタ騒がしい。夫も子供もとっくに寝ており、なんだろう?と思いつつ。。。

お風呂からあがると、夫から驚きの報告がありました。

夫がトイレに行こうと寝室から廊下に出たら、人影があって、なんと!隣家の次男くん(当時中学生)がぼーっと立っていたそう。

夫はとっさに隣家に強盗が入ったか何事かが起こったんだと推測、次男くんを刺激しないように話を聞いてみたら「大丈夫です」「何も起こってないです」「帰ります」と答えて様子も落ち着いていたので、隣家に送っていきました。ちなみにうちはマンションで、隣家の玄関ドアはうちの玄関ドアの真正面です(笑)

隣家の奥さんも何事が起ったのか、なぜ次男くんがうちにいたのかさっぱりわからないようで困惑、とりあえず平謝りされて、その場は何事もないならよかった!で終わりました。

ただ、我が家の玄関は鍵がかかっていたはずで、隣家も奥さんがドアを開ける前に鍵を開ける音がしたそう。

おかしいなあ、うちの玄関の鍵閉め忘れた?次男君は自分の家をでてちゃんと鍵を閉めたのかな?どうにも腑に落ちない感じでした。

 

そして翌朝、すべての謎がとけた~。

ベランダに出てみると、朝のまばゆい光の中、お隣との境、防犯ボードに巨大な穴が開いていた、というより防犯ボードがぶち破られていました。

次男くん、こっちから来たんだ!とわかって納得。それならすべての辻褄が合う。

お隣の奥さんもベランダの異変にすぐに気づいて、もう行き来自由状態ですが笑

事情を説明してくださいました。

 

次男くんは、前日、高熱がでて自室で寝ていたそう。

ご両親の寝室は次男くんの部屋より奥側にあり、次男くんがベランダに出たこともボードをぶち破ったこともまったく気づかなかった。

当の次男くんは、何かに追われていて、とにかく追われて恐怖のあまり逃げてベランダへ、ボードぶち破り我が家のベランダへ、たまたま開いていたリビングの窓から室内へという経路。ご本人もお母さまも「もし窓が開いていなかったら、ベランダから飛び降りていた」と言っていたのが印象的でした。

次男くんと話して、わたしも本当に窓が開いていてよかったと実感。

彼の記憶には追われていたことしかないんです。追われる恐怖で逃げる、逃げるためなら絶対飛び降りた。うちは高層ではないですが、飛び降りたらよほど運がよくない限り助からないでしょう。

次男くんの高熱は季節はずれのインフルエンザでした。

 

それ以来、インフルエンザや高熱をだしている子はひとりでほっぽらかしてはいけないと胆に銘じています。小さいうちは付きっきりでも、大きくなるとだんだん油断してくるので。

別に母親がべったりひっついてなくても、とにかく家族のだれかが絶対に一人はそばにいるようにしたほうがよいですね。

 

今回インフルエンザになった娘のうわごとは、かなり具体的でお友達の名前を呼んだり寝言っぽいものでしたが、やっぱりドキドキするし怖かったです。

 

普通の風邪ウィルスには脳のバリア機能が働いて、どんなに高熱でも脳に影響はないが、インフルエンザウィルスはそのバリア機能を突破することがあると聞いたので、やはりインフルエンザを甘くみてはいけません。

 

イナビルは効きました。よかった。