お墓問題について考える
自分ががんになって、生まれて初めて「死」をリアルに実感したとき、結構深刻だ。ということに気づいたのがお墓問題だった。
私の希望は散骨だが、公正証書で遺言を残すなり相当な対処をしてから死なないと、散骨は残された家族にとって負担になるかも…といろいろ調べるうちにわかってきた。
もし通例どおりお墓に入るとしたら、私が入るお墓はどこにあるのか?
そもそもそれもよくわかっていないのだ。
夫の実家も、義父は独立して自分の実家と離れた場所に住んでおり、義父も義母も健在なので入るお墓がまだないのかもしれない。
私が入るお墓を夫は買わないといけなくなりそうだ。
思い出すのは実父が亡くなったときのこと。
私の実家は親戚付き合いというものがとても薄い家で、父も母も自分の実家と離れた場所に居をかまえ、あの年代のヒトにしては珍しくとても兄弟が少なく、しかもその兄弟とも金銭トラブルで絶縁状態、それが元で父の実家とも疎遠だった。
父が亡くなって、まず一番初めにしたこと。
自分の家の宗派を調べるというありえない地点からスタート。浄土真宗だった。
父方の先祖代々のお墓があるお寺をなんとか調べて(祖母もちょっとぼけていてあやふや)、葬儀社の方が連絡を取ってくださり、遠方なので住職に来ていただかず市内の浄土真宗のお寺に依頼するという段取りをすべて仕切ってくださった。
次にしたことは、喪服を買いに行くことだった。母は着物にいれる家紋がどーので自分の実家に電話したり、もう辟易していた。
父が亡くなって数時間後のできごとだ。あまりの下世話さにわたしもほとほと嫌になっていた。
その後お通夜、葬儀が終わり、四十九日も終わらぬうちから遺産相続でもめて、元々うまくいっていなかった父実家と断絶状態になった。
遠方にあって数回しかいったことのない父実家の先祖代々のお墓に納骨するのを母は断固拒否、市内のお葬式のときお世話になったお寺に泣きついて新しくお墓を購入してしまった。父実家のほうが納得したかどうかも知らないが、父は父だけのお墓に納骨された。
私にとって「お墓」というのは父が眠るこのお墓のみだ。
父実家の先祖代々のお墓(祖父が眠る)、なんと祖母も納骨されず祖母は別のお墓に眠っている。
我が家のように家族が崩壊している家にとって、お墓は重荷でしかない。
でも我が家だけではなく、少子化が進む世の中では同じような問題がどこの家でもあるだろう。
ごたぶんにもれず、実母の実家もすべての血縁が亡くなり断絶して、残ったのは母の家族全員が眠るお墓だけだ。
そして血筋は母と私と弟のみ。
日本中いたるところで、血筋の絶えたお墓がひっそりと朽ちていくのだろう。
それでいいとおもう。
朽ちていってほしい。お墓は自然にかえる素材で作るのを義務付けるべきだった。
わたしは先祖の供養をちゃんとしないと祟られる的なことをまったく信じないので平気だが、そういうのを気にするタイプのヒトはつらいかもしれない。
だが、あったこともない先祖代々には、感謝の念は忘れないにしても想いをもつことは不可能だろう。
生前に交流のあった大切な家族を忘れずに覚えていることが一番の供養であって、墓参りという行為が供養なわけではないと思う。